公開から27年経った今でも、心に残る「胸クソ映画」(笑)として名高い『ファニーゲーム』を見直したので、独自に考察していきます。
本作を観た人の99%が「え?それ、どういうこと?」と戸惑うこと間違いなし。
逆に、ラストシーンで「ああ、そういう意味ね」と腑に落ちたあなたはちょっとおかしいかもしれません・・・
なぜかこの世の中には、わざわざ100分も使って気分が悪くなる映画を見るという方が、なぜか一定層いらっしゃいます。
そして結末の意味やセリフの意味をあれこれ考えたりするわけです。
結論:今作は現実世界のあなたに問いかけている
- 『ファニーゲーム』のストーリーと構造
- ラストシーンの深い意味
- なぜ“巻き戻し”をしたのか
- 監督ハネケが伝えたかったこと
- オリジナルとリメイクの違いとその意味
『ファニーゲーム』を見た方や、興味がある方はぜひ読んでいって下さい。
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あなたも共犯?『ファニーゲーム』とは

物語は、休暇中の家族が2人の若者によって人質に取られ、残酷な「ゲーム」を強制されるという内容です。1997年版ではオーストリアが舞台ですが、2007年版ではアメリカが舞台となり、ほぼ同じシーン構成でリメイクされています。この映画は、そのショッキングな内容と暴力描写により、批評家や観客から賛否両論を受けました。特にハネケ監督の意図する「暴力への批判」が議論の的となりました。
監督・キャスト
- 監督・脚本:ミヒャエル・ハネケ
- 製作:オーストリア 1997年(リメイクは2007年・アメリカ)
- 上映時間:109分
- キャスト:ズザンネ・ロータール|ウルリッヒ・ミューエ|アルノ・フリッシュ|フランク・ギーリング
ネタバレなしのあらすじ
物語は、アンナ、ゲオルグ夫妻と彼らの息子ジョージの一家が、休暇を過ごすために湖畔の別荘へ向かうところから始まります。
別荘に到着し、一家がくつろぎ始める中、隣家から「卵を分けてほしい」と礼儀正しい若者が訪ねてきます。
アンナは快く卵を渡しますが、この出会いが一家を予期せぬ恐怖へと巻き込むことになります。2人の青年、ペーターとパウルと名乗る彼らの態度は徐々に変化し、一家は不気味な状況に置かれていくのです…。
そして夜になると、青年たちは一家に恐ろしい賭けを持ちかけ、理不尽なゲームの幕が開けます。
『ファニーゲーム』のネタバレあり解説

『ファニーゲーム』は、ストーリーらしいストーリーはないですが、本作を見ようか迷っている方の為に解説しておきます。
序盤:静かで不気味なはじまり
湖畔の別荘へとやってきたアンナ、ゲオルグ、息子ジョージ、そして愛犬の穏やかな休暇のはずだった。
だが、その静寂は、「卵を分けてほしい」という一本のノックで壊される。現れたのは白い手袋をした2人の若者、ペーターとパウル。礼儀正しいその態度は、わずかな違和感を含んでいました。
そして、ふとした怒りの瞬間に、すべてが裏返る。
携帯は水没し、外界との連絡は絶たれ、ゲオルグはゴルフクラブで膝を砕かれる。
一家は“ゲーム”の駒にされ、逃げ場のない悪意に閉じ込められていく。
観客を共犯者にするゲームが始まる。
中盤:このゲームのルール
白い手袋の青年たちペーターとパウルに監禁された一家。連絡手段は断たれ、別荘はゲームの舞台と化す。
青年たちはまるで遊ぶように、家族に命令を与えます。
そこにあるのは “快楽としての暴力”。
そして観客である “あなた”にもその快楽が向けられるのです。
「次はどうなるのか」
「誰が助かるのか」
「このゲーム、勝てるのか」
観客はハケネ監督の思惑通り、自然と物語に期待してしまう。
そしてアンナがついに銃を手にし、ペーターを撃ち倒した――と思ったその瞬間
彼はリモコンで“巻き戻す
そう、“この物語の神”は、彼らであり見ているあなただったのだ。
終盤:終わったのは誰の物語?
時間を“巻き戻された”悲劇の家族は、再びゲームの舞台に引き戻される。
あることが終わると、ペーターとパウルはあっさり、まるで悪戯を終えた子どものように、別荘を立ち去ろうとする。
だがそれは、一時的な幕引き”にすぎなかった。
結末は、あまりに容赦がない。
家族は皆殺しにされ、アンナはボートに乗せられたまま、静かに、確実に、海へと沈められる。
だが、本当の悪夢はここからだ――
ボートの上で、パウルとペーターは語り出す。
「俺たちはフィクションだけど、君たちが観てるこの映画も現実と変わらない」
これは終わりではない。
犯人たちは裁かれずに終わる。理不尽”という名のゲームは、スクリーンの外でも、まだ続いているのだ。
『ファニーゲーム』のラストシーン考察

「現実」を破壊するラストのセリフ
ボートでのシーン、パウルとピーターはこんな話をします。
「現実と虚構の境目はどこにあるんだろうね?」
私たちが“フィクション”と思って見ていたこの物語が、唐突に“現実”を侵食してくる。パウルのセリフは、単なるサイコパスの言葉ではありません。これは、観客に向けられた問いかけなのです。
「あなたはさっき、少年が死ぬシーンを見て、それでも“映画として消費”したよね?」
「でもそれって、現実の苦しみをエンタメとして楽しんでいるってことじゃないの?」
まるでハネケ監督が、テレビ画面越しにこっちを睨んでくるような感覚。
この映画の暴力は、加害者が見せてるものではなく、パウルに言わせると
『観客が見たいものを見せてあげただけ』
青年たちは何事もなかったかのように、次の家へ向かいます。
そして扉をノックし、こう言うのです。
「卵を分けてくれませんか?」・・・・
ハネケ監督インタビューから読み解く
今作のラストシーンについて、ミヒャエル・ハネケ監督は多くを語ってはいません。
ハネケ監督は「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味だ」と述べ、安易なハッピーエンドや娯楽性を排除する姿勢を明確にしています。
また、予定調和や「善が悪を倒す」といったカタルシスを嫌い、観客の予想や期待を意図的に裏切るラストは、その思想を象徴するものです。
終盤、ペーターとパウルが交わす「虚構は現実と同じくらいリアルだ」というセリフは、スクリーンのこちら側の私たち観客への問いかけでもあり、暴力をフィクションとして消費することの恐ろしさを突きつけています。
ハネケのラストシーンは、観客に対する挑発であり、警鐘なのです。
なぜ“巻き戻し”をしたのか?
リモコンでシーンを巻き戻す──あの瞬間、「あ、これは“映画のルール”をぶち壊す作品なんだ」と誰もが気づくはず。
この行為は犯人たちが物語の支配者であることを示し、さらに彼らを支配しているのは実は観客なのだと表しているのだ。
観客が感情移入して安心しそうになると、パウルがそれを壊しに来る。
「安心するな。これはエンタメじゃない。現実の暴力と同じく、唐突で、救いはない」
実際、ハネケは「観客に暴力に無自覚でいてほしくない」と語っています。
彼はこの映画を通して、暴力描写の受け手──つまり私たち自身の倫理観を試しているのです。
さらに、リモコンは、現実と虚構の曖昧さを象徴する。終盤のパウルの言葉「虚構は現実と同じくらい事実だ」は、その核心を突いている。
この映画を観てしまったあなたは、もはや“ただの傍観者”ではいられない。
全く同じリメイクにした理由

1997年に公開されたオーストリア映画『ファニーゲーム』。
そして、10年後──監督ミヒャエル・ハネケは、まったく同じ内容を英語でリメイクしました。
脚本もカット割りもほぼそのまま、出演者と言語だけが変わった異例の作品。
「なぜ、同じ映画を作るのか?」
「オリジナルがあるのに、なぜまた?」
そこには、ハネケの怒りとメッセージが込められていました。
- 暴力描写を“娯楽”として消費してしまう観客への挑戦
- 暴力をエンタメとして輸出し続けるアメリカ文化への問題提起
- 英語でなければ届かない観客層への再発信
英語リメイク版『ファニーゲーム U.S.A.』はただの再現ではありません。
それは、“世界中の観客に突きつけられた一つの問い”だったのです。
暴力描写を“娯楽”として消費してしまう観客への挑戦
オリジナル制作時、監督は「この映画は暴力を批判するために作ったが、観客の多くがそれを娯楽として消費してしまった」と感じていた。
やがて【暴力への“感覚マヒ】【フィクションと現実の境界線】【他人の苦しみに鈍感になる】という結果に繋がるかも知れない事への警鐘だった。
暴力の輸出国”アメリカへの問題提起
ハネケ監督はアメリカを「暴力ヒーローを商品化し、それを世界に発信する国」と見ており、暴力的エンタメをアメリカ人自身に突きつけることが狙いだった。
英語でないと届かない層に向けた再発信
オリジナルでは届かなかった英語圏の観客にも同じ衝撃と問いかけを届けるために、同じ内容を英語でリメイク。
「あなたは本当にこのような暴力を“見たい”と思っているのか?」
という問いを、世界中の観客に再び投げかけたのです。
一部の感想ではリメイク版はオリジナルの持つ衝撃や価値を薄めてしまったとする批評もあり、賛否両論が存在します。
オリジナル vs リメイク違い
オリジナル vs リメイクの具体的な違いは
- 制作国:オーストリア制作→アメリカ資本
- 舞台:オーストリアの湖畔→アメリカの郊外住宅地
- 演出:メイクの方がカメラが近いカットが多く、人物の感情がより強調された
- 上映時間:リメイク版の方が111分と約8分長い
- 興行と評価:オリジナルはカルト的な評価。リメイクは賛否両論
まとめ:あなたは何を見たのか?

ラストで何も解決せず、誰も救われず、ただ次のターゲットへと向かう2人。
この終わりなき暴力のループ、SNSやメディアを通して暴力を消費する現代社会私へのメタファーなのかもしれません。
- なぜ暴力は繰り返されるのか?
- それを私たちは、なぜ“消費”し続けるのか?
- 暴力を楽しんでいるのは他ならぬ観客自身
『ファニーゲーム』は、単なる“胸クソ映画ではありません。
また人にすすめる映画でもありませんし、人生で見なくてもよい作品でしょう。
ですが、存在する意味のある作品だとは思います。
ではまた
最後まで読んでくれてありがとうございます。
「共犯者かも…」と思った方は、
コメントいただけると嬉しいです。
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ハネケ監督の作品紹介

『ファニーゲーム』同様に一切の解答を提示せず、観客にその答えを委ねるハネケ監督の初期三部作。
以下の3作はメディア批判や人間の行動や深層心理、倫理観の問いかけなどの要素が垣間見れるので一度見てみてはいかがでしょうか?
- 『セブンス・コンチネント』
- 『ベニーズ・ビデオ』
- 『71フラグメント』
一見平穏に見える家族が、物質的豊かさや現代社会の空虚さに蝕まれ、一家心中へと至る過程を描いた衝撃的なヒューマンドラマ。
1987年から1989年までの3年間を3部構成で描きます。タイトル「セブンス・コンチネント」は存在しない架空の場所を指します。
ベニーは裕福な家庭で育つ少年で街で知り合った少女を父親から盗み出した銃を使い衝動的殺害します。
しかも、この一部始終は部屋に設置されたビデオカメラによって記録されていました。
ベニーは両親に殺人の映像を見せますが、両親は息子の罪を隠蔽し家族の保身に奔走。愛や道徳が欠如した家庭像が浮き彫りになります
1993年12月23日にオーストリア・ウィーンで実際に発生した銀行銃乱射事件を基に、加害者と被害者の日常を断片的に描いた作品。
物語は事件当日までの数ヶ月間を追い、加害者や被害者、そしてその周囲の人々の日常を71の断片(フラグメント)として描写します。
概要を読むだけでも気分を害する方もいるかもしれませんが、すべての作品には倫理観や道徳観、批評がありすべての答えは観た側にあるのがハネケ監督の作家性と言えるでしょう。
ハネケ監督の初期作品は配信されていません。
見るならゲオ宅配レンタルがおすすめです。
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